
永山弥一郎(ながやまやいちろう、天保9年(1838年) - 明治10年(1877年)4月13日)は江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、明治の軍人である。天保9年、永山休悦の第一子として鹿児島荒田町に生まれる。名は盛弘、通称は弥一郎という。弥一郎は茶坊主(薩摩では特殊能力を有しない若侍は一時茶坊主とされた。例えば西郷従道など)として初出仕し、万斎と称した。弟の永山休二(盛武)も西南戦争に従軍した。弥一郎は若くして勤王の志を抱き、これに奔走した。文久2年(1862)、有馬新七らに従って京都に上り、挙兵に荷担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であるという理由で処罰を免れた。慶応3年(1967)、京都詰となり、陸軍で教練に励む一方で、中村半次郎(桐野利秋)らと市中見回りをした。

『益田兼施』より : 益田 兼施(ますだ かねのぶ、天保4年9月2日 (旧暦) 9月2日(1833年10月14日) ? 元治元年11月11日 (旧暦) 11月11日(1864年12月9日))は、幕末期の長州藩の国家老。右衛門介(うえもんのすけ)の名で知られている。通称は幾三郎。越中。弾正。諱は兼施、親施。号は霜台。長州藩の永代家老の家柄である益田家の益田元宣の三男として生まれる。1849年、兄が死去したため、家督を継いだ。1853年、ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。1856年には長州藩の国家老となった。1858年、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。